第9回研究会 報告


春季大会として第9回研究会が開催されました。

最初の演者は林氏で、「不老不死の夢と生循環〜テロメア研究の視点から〜」と題して我々の遺伝情報を担う核内DNAの末端“テロメア”が、如何にして生命の循環と関わるかについて話題提供されました。

最初に導入として、我々を含む全ての真核生物が保持する線状DNAの端の部分は様々な酵素による反応の影響を受けやすいため、テロメアというタンパク質-DNAの複合体によって守られていることや、DNAが複製を繰り返すたびにテロメアが短くなり、やがて保護が解かれてしまうことが老化の原因の一つであることなどを説明されました。ではなぜ真核生物はこのような線状DNAを持つのか、環状のDNAを持つ原核生物との対比で考察を展開されました。興味深いことに、通常は線状DNAを持つ酵母のある種の変異体は、環状DNAを保持しており普通に生育が可能である一方、減数分裂の際に染色体が絡まってうまくいかなくなります。すなわち線状の染色体は真核生物の爆発的多様性の原動力となる減数分裂に必要であるとのことでした。

これを受けて林氏は、真核生物の線状DNAは減数分裂を通じた多様性の表出によって我々に進化という概念をもたらした一方、テロメアによる老化、個体の死という新たな問題をも生じたと論じました。前者は成長に方向性があるという概念、後者は不老不死への憧れに通じ、生循環のアンチテーゼとしての「直線的生命観」の台頭に寄与しているのではないだろうかと議論を展開されました。しかしながら、我々多細胞生物の生殖細胞系譜は単細胞生物と同じく、地球上に最初に生じた生命から一度も途切れずに受け継がれていることを指摘され、我々の内包する不老不死性へと思いを馳せれば、個体の老化や死(生と死の循環=生循環)も違った意味を持つのではないかとの考察で締めくくりました。

次の演者は小石氏で、「循環する誤解の渦: 19世紀末「異国オペラ」の現在」と題して、オペラが、我々の生活の中にさりげなく入り込んでいて、しかもそれが、さまざまなレヴェルで誤解が重ねられつつ存在している実態について話題提供されました。

プッチーニ(Giacomo Puccini 1858-1924)のオペラ《蝶々夫人》は1904年に初演されたイタリア・オペラです。舞台は19世紀末の長崎。15歳の蝶々さんはアメリカ海軍中尉のピンカートンと「結婚」しますが、任務を終えたピンカートンはアメリカに帰国してしまいます。蝶々さんは彼との間に生まれたこどもを育てながらひたすら「夫」の「帰国」を待ちます。しかし三年後に来日したピンカートンは、アメリカ人の正妻を伴っていました。子供はアメリカに連れ帰られることとなり、絶望した蝶々さんは自殺する、という筋です。

この《蝶々夫人》が作曲された1900年頃というのは、パリ万博を経て、和服や日本女性の髪形などが有名になり、西洋目線での「日本女性」イメージができあがった時代でした。そんな時代に、まさに「売れる作品」としてつくられた《蝶々夫人》は、「日本」という設定のもと、あくまでも「西洋目線での理想的な」現地妻像が描かれています。自分たちの理想とする純愛を極東の芸者が気高くも貫くという設定が、お涙頂戴ドラマとして西洋人にウケたわけです。一人の生として尊敬をこめて共感できる存在として設定しながら、自分たちとは無関係な場所に生きる存在というのは、「ドラマとして」ちょうどよいものでした。

ところがこの《蝶々夫人》を、舞台となった日本において、日本の観客が鑑賞すると、「想定外」の事態が発生することになります。「日本の目線」の「わたしたち」を支配するのは、「本当の日本はこんなものではない。イタリア人のプッチーニには、本当の日本などわからなかった」という感情でした。そして「わたしたち」は、「ほんとうの日本」という理想像を追求し、原作とは離れた姿を追い求める、という道をあゆみはじめます。この「あゆみ」は社会的背景とも相まって1930年代から大きくなり、第二次世界大戦を経て、今日まで脈々と引き継がれています。

当日の発表では、イタリア、アメリカ、日本のオペラ劇場の現場、および新聞記事を例示しつつ、上記の問題を共有し、「イメージ」が実態から浮遊して循環し、思考を覆うさまについて議論しました。